翻訳することについて語るとき私の語ること? ~村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』より~

Pain is inevitable. Suffering is optional. 村上春樹『走ることについて 語るときに僕の語ること』より
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長距離ランナータイプ? 短距離ランナータイプ?

私は何事につけても長距離ランナータイプではない。どちらかといえば短距離ランナータイプだ。いや、どちらにせよ走るのはすごく苦手で、走るよりも歩くほうが好きだ。そう前置きしたうえで、お話しさせてもらいたい。

長期的に物事にコツコツと取り組むのが昔から苦手だった。ところが出版翻訳のお仕事をうれしいことに頂くようになると、やがてシリーズ物で大長編?のロマンス小説の依頼を受けた。私は迷った。けれど、駆け出しの翻訳者にとって依頼を断るなんてできない、そう思った。新しい分野も経験しておくべきだ。私の好きなファンタジーの要素も入っているロマンスなのだし。そう自分を納得させた。

当時、母は幸いまだ元気だったが、私は契約社員として長年働いていた語学関係の会社からリストラされ、翻訳一本で稼がねばならなくなり、ますます仕事を選べなくなった。そんな事情もあり、シリーズ物の翻訳の依頼を受けるということは継続的に仕事が約束されるも同然なので、翻訳者にとっては経済的にとてもありがたいことだった。

Pain is inevitable. Suffering is optional. 「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」

しかし、ペーパーバックでびっしり500ページ近くにもおよぶロマンスの大作をほぼ毎年3~4カ月かけて何年も訳し続けていると、私はかなり疲弊してきた。やがて母が脳卒中で倒れ、片麻痺の後遺症が出たけれど、自宅での介護を選んだせいもあるだろう。もらえる仕事をなるべく全部こなそうと、私自身が無理を重ねたのも悪かった。私はついに大病にかかり、入院手術を繰り返す羽目になるのだが、その話はまた別の機会にできたらと思う。

そんなわけで私は毎日つらい、苦しい、しんどいと感じながら、無理やり机の前にすわって翻訳作業を続けていた。そんなときに出会い、私を救ってくれたのが、作家の村上春樹さんが紹介していた言葉だ。

兄に教わった文句を、走り始めて以来ずっと、レース中に頭の中で反芻しているというランナーがいた。Pain is inevitable. Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとしても、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。この言葉はマラソンという競技のいちばん大事な部分を簡潔に要約していると思う。

村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』(文春文庫)前書きより

好きだったはずの翻訳作業が苦痛以外の何物でもなくなりかけていた。それでも締め切りを守らなければならない。私もまるでマラソンのように“Pain is inevitable. Suffering is optional.”と心の中で唱えながら、日々踏ん張った。自分以外の誰かが表現した作品をできる限り正確に理解し、できる限り忠実に日本語に変換する作業が楽なわけがない、きつくて当たり前、でもまだやれる、「もう駄目」なんかじゃない、と。

以前、おそらく意に沿わない仕事について、「心を無にして毎日働いている」と打ち明けてくれた友人がいたが、その感覚に近かったのかもしれない。

でも何はともあれ、それが私という人間なのだ!

走っている女性の足もと

本来、長距離ランナータイプではなかった私は、大長編の翻訳には向いていなかったのだろう。それでもなんとか乗り切れたのは、村上春樹さんが紹介してくれた“Pain is inevitable. Suffering is optional.”というマントラのおかげだった。小説の一節であれ、歌詞の一節であれ、実体験からのセリフであれ、誰かの言葉はいつも私を救ってくれた。臆病な私が60代になってブログを始めた理由のひとつもそれだった。私を救ってくれた言葉を紹介すれば、今悩んでいる誰かの役に立つかもしれない、と思った。

さて、この話のオチをどうするか。今の私ならもっと楽な道を探しただろう。不得手な仕事を引き受けないという選択肢も考えただろう。でも、当時の私は良くも悪くも「必死」だった。なんとか出版翻訳の世界に入りたい、そこで踏みとどまりたい、いつか好きな本を訳したい、と夢見ていた。だから、チャンスを逃す選択肢はなかったのだ。

過去を振り返ってみて、私はほんとうにバカだったなとは思う。多くを望み過ぎて失敗した。人生をやり直せるなら、自分がもともと好きだった分野に絞って、覚悟をもって仕事に取り組みたいと思う。とはいえ、村上春樹風に言うなら、「でも何はともあれ、それが私という人間なのだ」ということだろう。失敗も多かったけれど、これが私の人生。まぁ、仕方ないよねってことで(笑)。

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