せっかく「長年にわたる翻訳経験あり」と謳っておきながら、経験談やエッセーっぽい記事ばかりで、英語表現や実際の翻訳作業などについては少しもお話ししていませんでした……。そこで、一応、翻訳者の端くれである私が出会った名訳、心に残るフレーズなどを小説や映画から抜粋してお伝えしたいと思います!
題して「これは脱帽! 名訳シリーズ」。かなり個人的な趣味が前面に押しだされるかもしれませんが、とにかく私自身が「すごい」「かっこいい」「美しい」「励まされる」「含蓄がある」など、その翻訳や言葉のセンスにうならされた表現をご紹介できたらと思います。
『怪物はささやく』の著者パトリック・ネスからの冒頭のメッセージ
パトリック・ネス著、シヴォーン・ダウド原案、池田真紀子訳の小説『怪物はささやく』は映画化もされているため、ご存知の方も多いと思います。内容の素晴らしさもさることながら、ジム・ケイの装画・本文挿絵の圧倒的な魅力もあって、私自身も完全にノックアウトされ、読後はしばらく呆然としていた作品です。
内容についてはまた別の機会にお話しできればと思いますが、今回取りあげるフレーズ‘make trouble’は、冒頭の著者からのメッセージに登場します。早世したイギリスの女性作家シヴォーン・ダウドの未完の遺作をパトリック・ネスが仕上げたものが本作品であり、その経緯について語るなかで、‘make trouble’という表現が2回登場します。
私はまず池田真紀子さんによる翻訳版(
翻訳版を読んだとき、「思いきり暴れてちょうだい」「思いきり暴れてくれ」という表現が心に残り、原文はどうなっているのだろうと気になりました。少し長いですが、日本語訳をまず引用します。
バトンを渡されたような気がした。いまもそう思っている。抜きん出て優れた作家が、新しい物語をわたしのてのひらにぽんと置き、「さあ、これを受け取って走って。あとはご自由にどうぞ。思いきり暴れてちょうだい」と言ってくれたように感じた。その直感を信じて、わたしは走りだした。たった一つの目標を見すえて走った。シヴォーンがきっと気に入ってくれたであろう本を書くこと。それだけを考えて走った。ほかの物差しは目に入らなかった。
さて、いま、同じバトンをあなたに引き継ぐ時が来た。作家はリレーの第一走者ではあるだろうが、アンカーではない。シヴォーンとわたしが作りあげたものをあなたに渡そう。さあ、次はあなたの番だ。これを受け取って走りだしてくれ。
思いきり暴れてくれ。
パトリック・ネス『怪物はささやく』創元推理文庫
‘make trouble’=「暴れる」??
すでにおわかりかと思いますが、日本語訳の「暴れる」のもとの英語が’make trouble’だったわけです。
さて、みなさんが翻訳するとしたら、’make trouble’をどう訳すでしょうか? 次は原文を引用しますので、日本語訳と比較しながらじっくり読んでみてください。
I felt – and feel – as if I’ve been handed a baton, like a particularly fine writer has given me her story and said, “Go. Run with it. Make trouble” So what’s what I tried to do. Along the way, I had only a single guideline: to write a book I think Siobhan would have liked. No other criteria could really matter.
And now it’s time to hand the baton on to you. Stories don’t end with the writers, however many started the race. Here’s what Siobhan and I came up with. So go. Run with it.
Make trouble.
Patrick Ness “A Monster Calls” Walker Books
‘make trouble’というフレーズは、辞書で調べると主に「トラブル/面倒/もめ事/問題を起こす」という訳語が出てくるはずです。THE FREE DICTIONARY では“To act or behave in a troublesome manner; to cause problems or issues.”という定義が載っていました。
おそらく’trouble’という英単語から、すぐに「暴れる」という訳語が思い浮かぶことはほとんどないと思います。訳者の池田真紀子さんが物語の内容からもっともふさわしい表現として「暴れる」という日本語を選択したのだと思います。
簡単な英単語こそ、ぴたりとハマる訳をつけるのは難しい
もうひとつ、池田真紀子さん自身が「訳者あとがき」で引用している文章があります。怪物が語るこのセリフには、本作品の根底に流れる大事なメッセージが込められていると思われます。
Stories are the wildest things of all, the monster rumbled. Stories chase and bite and hunt.
Patrick Ness “A Monster Calls” Walker Books
物語はこの世の何より凶暴な生き物だ。怪物の声がとどろく。物語は追いかけ、噛みつき、狩りをする。
パトリック・ネス『怪物はささやく』創元推理文庫
冒頭の著者メッセージに登場する’make trouble’を「暴れる」と訳したのは、本文中の怪物のこのセリフに呼応する響きがあったからかもしれません。
この日本語への変換の見事さにはうならされますよね。辞書の訳語に似た表現を使っても、著者の意図が伝わるはずはない。「暴れる」こそ、まさにぴったりだと思います。‘trouble’というと簡単な英単語のひとつでしょうが、そういう単語こそ文脈に沿うぴったりの日本語訳を見つけるのが難しいのでしょうね。
でも、悩んで悩んで、ふとした瞬間に(自分としては)ぴたりとハマる訳語を思いついたときの快感こそ、翻訳の醍醐味なのかもしれません。
名訳を生みだす翻訳トレーニング法のひとつとして、自分が気になるフレーズや文章について、原文の英語と訳文を比較してみるのもかなり有効でしょう。日頃からアンテナを張り巡らせ、日本語英語ともすばらしい表現をどんどんストックしていきたいものですね。みなさま、日々努力あるのみです! ともにがんばりましょう!
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