翻訳に才能や学歴は必要? ~萩尾望都『一瞬と永遠と』より~

「もう一人の私がいたら」-しかし、そんなものはいないと、もう、私は知っている。持ってるカードを駆使して生きるしかない。みんなそうやって生きているのだろう。
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夢見る力はあっても

20代初めの頃、小説の翻訳に憧れを抱いていました。10代の頃には東京創元社早川書房といった出版社のSFやホラー、ファンタジー作品を読み漁っていたせいか、そうした分野の翻訳者にいつかなれたらと夢見ていたんです。

夢見る力は人一倍あっても、行動力には恐ろしく欠けていた私は、どういうわけか、書店に並ぶ創元社や早川書房の文庫本の巻末の訳者紹介を見てはため息ばかりついていました。少なくとも当時は、私の記憶では、東大卒や東大大学院卒といったそうそうたる学歴の翻訳者の方々が多かったんですよ。やっぱり、そもそも才能のある、有名大学卒でないと小説の翻訳は難しいんだ、と感じていました。

今思えば、意気地なしの私は、自分には出版翻訳者を目指す資格はない、だからやめたほうが無難だ、と自分を納得させたかったんでしょう。あきらめるほうが楽ですから。学歴がないから、と理由付けしてしまえば、簡単に決着がつきますよね。

若い頃は、誰しも「才能」にこだわってしまうものではないでしょうか? 才能さえあれば、もっとすばらしい文章が書けるのに、もっと仕事のオファーももらえるだろうに…。自分には学歴も才能もない。凡人でしかない…。

今の私なら、もう開き直っているので、「才能」なんて抽象的な概念にこだわるよりも、とにかく努力して自分の能力を少しでも磨くしかない、とわかっていますが、若い頃はとにかく夢が大きい分、挫折も大きくなりがちですし、なにかと悩み多き時期でしたから。

少女漫画家、萩尾望都さんの言葉

さて、「才能」といえば、私の頭に浮かぶのが、少女漫画の神と称される漫画家の萩尾望都さんのこと。『ポーの一族』『トーマの心臓』など数々の名作を世に送り出した、まさに才能に恵まれた女性。少女時代から作品を愛読してきた私にとって、萩尾先生は少女漫画家のなかでもまさに別格、もう天才以外のなにものでもない、という存在です。

さぞかし、あふれる才能を自由自在に発揮なさっているのだろうと、勝手に推察していました。しかし、エッセイ集『一瞬と永遠と』を読み、萩尾先生もやはり悩み、苦しみながら、描いているのだとわかりました。

「伝えたいことがあってそれを描くが、伝わらない。誤解や勘違い、取り違いのオンパレード。その取り違いの中を、なんとか繋げていくのが表現でもあり、面白いが、疲れる。失意と絶望に沈むこともある」と。

「もう一人の私がいたら」

 しかし、そんなものはいないと、もう、私は知っている。持ってるカードを駆使して生きるしかない。みんなそうやって生きているのだろう。

萩尾望都『一瞬と永遠と』(朝日文庫)109ページ
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はたから見ればうらやましい限りの人物も、当人はそう楽々と作品を生んでいるわけではない。人間なのだから当たり前のことですよね。でも、隣の芝生は青く見える。ないものねだりで、つい「才能」「優れた学歴」が欲しくなる。

自分の持ってるカードを駆使して生きる!

黄色い背景に緑や紫、オレンジ色の花々

タイトルの問いかけにもどって、自分なりに答えを見つけました。結局、身もふたもない言い方になるけれど、「自分なりにやっていくしかない」ということ。頭脳の優秀さの証明である学歴や持って生まれた才能があれば、それは本当に鬼に金棒だし、うらやましいの一言に尽きます。

翻訳も、優れた翻訳書を読んでいると、こんな文体や表現はとても思いつかない、脱帽だ、ということが多々あります。それはその翻訳者の才能かもしれないし、努力のたまものかもしれない。その両方かもしれません。どちらにせよ、他人をうらやんでもなんの意味もない。萩尾先生の言葉を借りると、「自分が持ってるカードを駆使して生きるしかない」のでしょう。

凡人である自分を認めつつ、自分なりに努力しつづける。それでいいと思いたい。いや、まぁ、そう思うしかない、そうするしかない、というのが実情ではありますが(笑)。

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