「孤独死」=「寂しい」??
新聞などで「孤独死」という見出しを見かけるたびに、どこか違和感を覚えていました。「独居老人、孤独死」などと表現されてしまうと、「孤独」=「寂しい」「可哀想」「気の毒」と連想しがちです。
私自身、独り身で子供がいませんから、「孤独死」は他人事ではありません。でも「孤独」や「孤独死」ってそんなに気の毒なことなのでしょうか? 偏見や固定観念が入りこんでいるのではないでしょうか?
もちろん、私自身にも先入観がありますから、若い頃は「ひとりは寂しい」と思いこんでいました。恋人や友だち、家族がいてワイワイやってるほうが幸せそうだなと感じていたんです。
でも、実際に、自分が60代になり、そろそろ高齢者の仲間入りをする年齢になってみると、もちろんそれなりに不安はありますが、「孤独」はそんなに寂しいものでもないとわかってきました。ひとりだから寂しいわけではなく、大勢と一緒にいても孤独を感じることはあるんですよね。
誰にも看取られずに亡くなったら「孤独死」とメディアが書き立てるのをやめてほしい、「孤独」という表現を使わないでほしい(他に適切な表現が見つからないからかもしれないけれど)と思います。亡くなった本人が孤独を感じていたかどうかなんて、本人にしかわからないのに。
『独居老人スタイル』に励まされた!!
そんなふうに感じていたとき、「POPEYE」「BRUTUS」誌などで雑誌編集者として活躍された作家、編集者、写真家の都築響一さんの『独居老人スタイル』を読みました。「“老人の1人暮し=哀れな晩年”そんな偏見を覆す16人の人生の大先輩への超インタビュー集」という触れ込みに心魅かれたんです。
内容そのものは、芸術関係のユニークな活動をされている方が多く、うらやましい限りの自由奔放さだったので、自分の老後の参考にするのはちょっと難しいなという感想なのですが、単行本のあとがき(現在入手しやすい文庫版のあとがきとは異なるかもしれません)が心強く、励まされたのでご紹介いたします。
もちろん病気で買い物にも行けない老人を世話するとか、社会がやるべきことはたくさんある。ただ年をとっても自分でできる人は、本人任せでいいんじゃないでしょうか。欧米では独居老人も当たり前だし、よろよろしながら買い物してる人もよく見る。その人たちがみな不幸だというのは、上から目線に過ぎる気がします。
都築響一『独居老人スタイル』(筑摩書房)
「その人たちがみな不幸だというのは、上から目線に過ぎる気がします」という言葉は、自戒をこめてしっかり胸に刻んでおこうと思います。
私も含めて人はすぐに他人のことをよく知らないのに「可哀想」「気の毒」「不幸」と杓子定規に決めてかかる傾向があります。同調圧力の強い日本社会では特にそうでしょう。先入観や偏見、固定観念に惑わされないように注意したいです。
老人問題で心配すべきだと思われてるのは、金、健康、家族を含めた人とのつながり。でもその3つがどうでもいいと思ったら、めちゃくちゃ楽になる。あんまり「理想の老い」みたいなものにとらわれなくていい。家の中がぐちゃぐちゃだって、手近なところに物が全部あったら楽でいいじゃないですか。
都築響一『独居老人スタイル』(筑摩書房)
確かに、「金、健康、家族を含めた人とのつながり」も「豊かな老後」には必要とされていますが、そんな「理想の老い」という観念にとらわれなければ、もっと自由に老後を楽しめるかもしれません。
自分だけの「独居老人スタイル」を目指そう
僕も若い頃は、成功してる人がハッピーだろうと思ってたし、豪邸に住んでる人の方が上質だと思っていた。でも経済的には下流の生活をしていながらすごくハッピーな人たちに会ううちに、いろんなことが見えてきた。
(中略)
好き勝手に生きることには副作用もあります。お金がないとか、友達がいなくなるとか。でも僕が会ってきた独居老人たちは世の中に文句を言わない、近所に嫌われても、お金がないから牛丼しか食えなくても、それは自分が選んだ結果だと知っている。1人になれば背負うものもあります。それをポジティブにとるか、ネガティブにとるか。
都築響一『独居老人スタイル』(筑摩書房)
私も「成功」=「ハッピー」と思っていました。いや、いまだにそう思ってるし、成功に憧れてる面もあります(笑)。でも、老後に限らず、自分の人生は自分で決める、決めたら覚悟をもって生きていく、それが大事ですよね。
好き勝手に生きるほうが実は難しいし、大変なのかもしれない。これから未知の老後に向かって、自分なりに納得のいく生き方ができるように、もう一度よく考えてみたいです。
息苦しい日本社会ですが、老若男女みんなが、少しでもそれぞれにハッピーな毎日を送れるといいですね。
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